昨日買ったG-shock

写真 (11)

すっごい久しぶりにブログを更新した。紙の日記も昔はマメにつけてたけども最近はあまりやってない。
書家・書道史家の石川九楊が、人間の文化活動は「かく・はなす・くむ・つむ」にの四つに大別される、と言っているのを以前本で読んだ。
最近の僕の文化活動は、「かく」が減って「はなす」が増えてきている。

来週末の公演 「始末をかく」 の準備が佳境に入ってきました。なかなか他に類を見ない公演になりそうだ。よかったらおいでください。なかなか他に類を見ないものが見られると思います。以下は岸井さんの文章です。

* * *

雑木林にバナナの木を見ると今でも驚く。日本の山林には少なくとも1500年前にはバナナが自生していたと知っていても。バナナは違うだろと感じてしまうのだ。南国を思わせるやぶれかぶれな葉と大き過ぎる花(バナナの房になるんだから大きいのは当たり前だろうに)が、森から浮き立つ。

芭蕉(ばしょう)とはバナナのことだと知り驚いたのはいつのことだったか。松尾芭蕉とは松尾バナナの意味であり、芭蕉扇(西遊記の)とはバナナの葉のような扇のことであるのは、僕にはなじんだ知識であるけれど、やはり、違和感がある。漢字で芭蕉と書かれても、それはバナナではないと感じる。

何かが、場から浮いて感じるとき、僕らは、魂があるとか、オーラが見えるとか、強度をはらむとか、演技をしているとか、いうんだろう。日本の森のバナナや日本語の海の芭蕉という表記のように、世界から浮いている自意識に、過不足なくあるものが、演技とか作品で、それをみたいのが、鑑賞とか観劇ではないか。カントが判断と命名したのもこの感覚で、生成とか差延とかは、その成り立ちを説明しようとしていると思うのだ。

同様に、バナナでありながら芭蕉であるというのも驚きの形式の一つだろう。それをためしてみようとはじめることにした。

劇場で新作を上演しようと思いついたのは2007年の「劇を創る」以来です。「劇を創る」と「文(かきことば)」のバリエーションは折々上演してきましたが、新作を観ていただくのは7年振りで、自分の仕事の遅さにあきれます。今までの作品同様「始末をかく」も、2015年8月まで、何度か上演しながら、創っていこうと考えていて、今回が、初演です。あたまからお付き合いいただけますとよりお楽しみいただけると思います。ぜひ、遊びにきてください。

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